【歴史】明治政府の政策と外交

【明治政府の政策と外交】

明治時代の激動の歴史へようこそ!今日は、日本が「近代国家」へと生まれ変わるために、どんな挑戦をしたのかを一緒に見ていきましょう。

日本の大変身!「富国強兵」って何?

みなさん、こんにちは!今日は歴史の教科書の中でも特におもしろい、「明治政府の政策と外交」についてお話しします。

江戸時代、長く鎖国をしていた日本ですが、明治になって突然「世界と対等に渡り合わなきゃ!」と焦り始めます 。なぜなら、当時の欧米諸国はめちゃくちゃ強かったからです。そこで合言葉になったのが「富国強兵(ふこくきょうへい)」です 。

富国:経済を発展させて国を豊かにすること 。

強兵:強い軍隊を作ること 。

「お金持ちになって、マッチョな国になろうぜ!」という作戦ですね。このために政府は「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」といって、新しい産業をどんどん育てることにしました 。

街並みがガラッと変わった!「文明開化」と「官営工場」

さて、具体的に何をしたか見てみましょう。

  1. 官営模範工場の誕生

政府は「外国のすごい技術をマネしよう!」と、お手本になる工場を作りました。それが群馬県の富岡製糸場(とみおかせいしじょう)です 。

ここではフランス人技師から教わりながら、女性たちが輸出用の生糸(きいと)を一生懸命作っていました 。

ちなみに、一万円札でおなじみの渋沢栄一(しぶさわえいいち)さんも、多くの企業の設立に関わって日本の経済を支えたんですよ 。だから、一万円札の肖像になっているんだよね。

  1. 生活の激変!文明開化  この「化」の字、気をつけて! 「花(はな)」ではないよ

この頃の街並みは、今の写真を見てもワクワクします。

乗り物:鉄道が新橋・横浜間で開通し、人力車や馬車が走り回ります 。

食べ物・ファッション:牛鍋(今のすき焼き)を食べて、洋服やハット、コートを着るのが「ナウい」スタイルになりました 。「ナウい」って、「今っぽい」「流行りの」っていう若者言葉だったんだけど、「ナウい」自体がもうナウくないね(笑

時間:今の「1日24時間、1週間7日」という太陽暦が始まったのもこの時です 。

さらに、福沢諭吉(ふくざわゆきち)が『学問のすすめ』を書いて「みんな勉強して自立しよう!」と呼びかけ、新しい思想がどんどん広まっていきました 。福沢諭吉は前の一万円札ね。慶應義塾大学(ACE塾長の母校)を創設した人だよ。

外交の苦労:岩倉使節団と近隣諸国

国の中を整える一方で、外の世界とも交渉しなきゃいけません。でも、これが大変だったんです。

  1. 岩倉使節団の挑戦

1871年、岩倉具視(いわくらともみ)伊藤博文(いとうひろぶみ)大久保利通(おおくぼとしみち)たちが欧米に旅立ちました 。

  • 目的は、江戸時代に結ばされた「不平等条約」を直すこと 。
  • 結果は……残念ながら失敗 。ここでACE(エース)流記憶術~。「使節団、失敗だなんて、言わないで」 1871(イチ、ハチ、ナナ、イチ)で「言わない」 何かみたことあるねぇ。「藩とは、言わない、県と言う」「えた・ひにん、とは言わないで、解放令」

1871年は「言わない」ことが多いね!

  • でも、彼らは欧米の進んだ政治や産業をその目で見て、「日本はもっと近代化しなきゃダメだ!」と強く実感して帰ってきました 。この時、津田梅子(つだうめこ)さんら女子留学生も一緒に行っていたんですよ 。
  1. アジア諸国との関係

お隣の国々とも新しい関係を作ります。

  • 清(中国):1871年に、対等な立場で日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)を結びます 。

ここでACE流記憶術~。「いばらない、対等日清、修好条規」1871(イチ、ハチ、ナナ、イチ)で「いばらない」 やっと「言わない」から抜け出せた~。

  • 朝鮮:日本国内では、武力で開国させようという「征韓論(せいかんろん)」が起こります 。1873年。
  • 結局、征韓論を唱えた西郷隆盛(さいごうたかもり)板垣退助(いたがきたいすけ)は政府を去りますが、その後、1875年の江華島事件(こうかとう)を経て、1876年に朝鮮に不平等な日朝修好条規を結ばせました 。何だか西郷さん、悪いイメージなっているけど、西郷さん自身は、「朝鮮とは話し合いなんだから、武器など持たずに丸腰で行く」って言っていたらしいんだよね。でも、結果的に政府を去って、いやな西郷さんって感じ。おおっと!ここでACE流記憶術~。「いやなさいごう、征韓論」 1873(イチ、ハチ、ナナ、サン)で「いやなさ」いごう。1873年って、「いやな」ことが3つになったね。

「いやな3年、徴兵令」「いやな3%、地租改正」「いやな西郷、征韓論」セットで覚えちゃおう! ついでに、「いやなこうかとう、日朝修好、不平等」1875(イチ・ハチ・ナナ・ゴ)で「いやな、こ」うかとう。

 

日本の形が決まる!国境と領土の確定

最後に、今の「日本の形」がどう決まったかを確認しましょう 。

  1. 北の国境:1875年、ロシアと樺太・千島交換条約(からふとちしまこうかんじょうやく)を結びました。樺太(からふと)をロシア領、千島列島(ちしまれっとう)を日本領に決めたんです 。ここでACE流記憶術~。「いやな交換、からふと、ちしま」 1875(イチ・ハチ・ナナ・ゴ)で「いやな、こ」うかん。

 

  1. 北海道(ほっかいどう):蝦夷地(えぞち)を「北海道」と改名し、開拓使(かいたくし)を設置。1874年、士族を屯田兵(とんでんへい)として送り込んで開拓を進めました 。ただ、その影でアイヌの人々が土地や漁場を奪われるという悲しい出来事もありました 。ここでACE流記憶術~。「いやな士族は屯田兵」 1874(イチ、ハチ、ナナ、ヨン)で「いやな、し」ぞく。
  2. 南の国境小笠原諸島(おがさわらしょとう)を領有し、琉球王国(りゅうきゅうおうこく)には軍事力を背景に、1879年沖縄県(おきなわけん)を設置しました(これを琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)と呼びます) 。ここでACE流記憶術~。「琉球と、言わなくなって、沖縄県」 1879(イチ、ハチ、ナナ、キュウ)で「言わなく」
  3. 固有の領土竹島(たけしま)は1905年に内閣で編入を決定し、尖閣諸島(せんかくしょとう)も1895年に日本への編入を決定しました 。現在、竹島(たけしま)は韓国が不法占拠している。尖閣(せんかく)は日本が有効に支配しているが、中国が領有権を主張している。

明治政府が目指したもの

今日の授業をまとめると、明治政府は「富国強兵(ふこくきょうへい)」を合言葉に、古い仕組みを壊して、欧米に負けない新しい日本を必死で作ろうとしていたんですね 。

文明開化でキラキラした変化があった一方で、国境をめぐる厳しい交渉や、開拓によって苦労した人々がいたことも忘れてはいけません。

次は、この明治政府に対して、国民が「自分たちにも政治に参加させろ!」と立ち上がる「自由民権運動」について見ていきますよ!

 

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